Wednesday August 26, 2009 at 13:37

“業績を上げろと言われて、数字に対して数字で対応したらば、その数字の評価しかこないんだけど、そうじゃなくて、こいつは役に立つんだという主張をできるようなところで工夫をするというか。  「もし、自分がその上司の立場だったら、どんな仕事をしたら部下を認めるだろう」というところに視点を変えてみるとか。要するに、視点の切り替えですよね。「会社は俺に何もしてくれない」じゃなくて、「会社のために俺はこんなことができるんだけど」というのは有効だと思います。”

中核から離されたら、ラッキーと思え:日経ビジネスオンライン

Wednesday August 26, 2009 at 13:15

「検証・民主党政権で日本はどう変わるのか」第6回

2009年8月18日

 ビデオニュース・ドットコム 霞が関の権益を引き剥がせるか? 
政権の試金石「学校理事会」という爆弾
(ジャーナリスト 神保哲生)
 
 
 民主党が政権を獲得した場合、それが実効性のある政権になるかどうかを占う上で、重要な試金石になると思われる政策がある。それは民主党が教育改革の一環として導入を主張している「学校理事会」という制度だ。
 
 民主党のマニフェストには「公立小中学校は、保護者、地域住民、学校関係者、教育専門家等が参画する『学校理事会』が運営することにより、保護者と学校と地域の信頼関係を深める。」としか書かれていないので、これがそれほど重大な政策のようには思われていなくても不思議はない。しかし、どうしてどうして、この学校理事会こそ、民主党政権のテーマが満載された象徴的な政策と言っても過言ではない。
 
なぜならば、民主党の考える学校理事会制度とは、中央官庁の権益を丸ごと引き剥がし(既得権益の剥奪と霞が関の改革)、それを地方に移譲し(地方分権)、地域が独自の判断で学校を運営できるようにする(フェアネス)と同時に、地域の住民を巻き込んで(市民参加)、学校という公的な機関を運営していこうというものだからだ。
 
 本連載の過去分をお読みいただければわかるように、既得権益の剥奪と霞が関の改革、地方分権、フェアネス、そして市民参加が、いずれも民主党の政策理念の要諦となっている。
 
 しかし、逆の見方をすれば、もし既得権益を持つ勢力の抵抗に遭って学校理事会の政策を実現できないとなると、民主党政権はおそらく他の分野でも立ち行かなくなっている可能性が高いことになる。いや、そもそもこれを実現できないとなると、民主党の政策理念自体が疑わしいものになってくる。一見地味ながら、それほどこの「学校理事会」は民主党政権にとってメルクマール的な意味を持つ政策と見られるのだ。

画期的な学校理事会の中身

 この学校理事会という制度は、中身を見れば見るほど大変な制度だ。それがマニフェストから伝わってこないのが残念だが、もしかすると民主党の政策担当者たちは、前回紹介した「メディア政策」と同じように、抵抗勢力を刺激することを避けるために、あえてマニフェストにはそこまで書き込まなかったのかもしれない。
 
 学校理事会とは、単にこれまでのPTAに毛が生えたような組織をつくろうという話ではない。民主党の政策集や過去に提出してきた法案の中身、文教政策担当者の発言などを総合すると、現在の日本の教育を牛耳ってきた文部科学省や教育委員会の権益を丸ごと引き剥がし、それを地方に移譲した上で、市民が参加する「学校理事会」に学校運営に関わるすべての権限を持たせるというものなのだ。
 
 学校理事会という組織自体は、学校関係者(校長、教頭、教員など)に加え、生徒の保護者、地域住民、教育関係者などからなり、学校ごとか、もしくは地域ごと(当初民主党が意図していた「地域」は人口30万人程度の基礎的自治体だったが、その後、地方分権政策は道州制に路線変更したため現時点では「地域」がどの程度の規模になるか不明)に設立されるという。
 
 これだけだと、現行のPTAにちょっとスパイスを利かせた程度のものにしか見えない。しかし、そこに移譲される権限が、じつは大変な意味を持つ。学校理事会の設置に伴い、教科書検定や学習指導要領は事実上廃止され、さらには教員の採用から教科書の選定、カリキュラムの決定まで、事実上学校運営に関わるすべての権限を学校理事会が持つことになるというのだ。
 
 もともと民主党は高校無償化や大学向け奨学金の拡充などを提唱し、教育機会の均等の実現にはことさら力を入れている。また、地方分権は民主党が一貫して主張してきた政策でもあるし、民主党が目指す霞が関解体における切り札的政策でもある。霞が関の権益という意味では、戦前の旧内務省から分かれた文科省は、その最も奥座敷にある存在と言っても過言ではない。
 
 現在、カリキュラムを含む公立小中学校の運営に関する決定は、都道府県および市町村の教育委員会が行っている。だが実際は、学習指導要領などを通じて、中央政府である文部科学省の意向が全国隅々まで行き渡っていると言われる。
 
 また、全国の小中学校で使う教科書の検定も文科省のもとで行われるため、北海道から沖縄まで日本のすべての小中学校は、東京にある文科省が認めた教科書を使わなければならない。沖縄では2月、北海道では5月に咲く桜が、日本中の教科書で一律に4月に咲く花となっているのは、すべての教科書が東京を基準に決められているからだ。
 
 学校理事会制度が導入されれば、現在、文科省が持つ小中学校に対する権限は事実上すべて学校理事会に取って代わられることになる。そのなかには、学習指導要領で子細にわたりカリキュラムを縛る権限も、教育委員会や教科書検定委員会を通じて行われている教員の採用や学校施設の管理、そして教科書を選定する権限も含まれる。
 
 つまり、この制度が民主党の意図するとおりに機能すれば、全国の公立の小中学校は、中央からの一律のコントロールから解放され、地域の伝統や歴史、風土や特色に合った独自の教科書を選び、独自のカリキュラム、つまり科目の選定と授業内容や授業の時間割を組めるようになる。教育委員会が行っている教員の採用も学校理事会に移譲されるので、地域ごとに地元の出身者を優先的に採用したり、特定の科目の教員を重点的に雇ったりすることもできる。これらが実現すれば、現行の全国一律の教育が、より地域の特色を活かしたものに生まれ変わる可能性は高い。
 
 また、いじめや非行、学級崩壊といった今日の学校が抱えるさまざまな問題も、各学校と物理的にも精神的にも至近距離にある学校理事会が対応することになる。となれば、地域の実情に合った、よりきめ細かな対応も可能になるだろう。

市民参加がなければ単なる画に描いた餅

 しかし一方で、仮にこのような制度ができたとしても、地域住民が積極的に参加しなければ、一部の「うるさ方」や「地元のボス」のような人たちが学校理事会を牛耳り、個人の価値観を押しつけたり、偏った教育が行われたりすることにもなりかねない。そもそも地域住民が積極的に参加し、監視しなければ、学校理事会のメンバーの選考自体が、公正なものになるかどうか怪しくなってくる。参加する市民が嫌々だったり、形だけの参加になれば、制度自体が宝の持ち腐れになる可能性もあるし、文科省の一律管理の時代よりももっと悪くなる可能性だって否定できない。
 
 また、文科省が担保していた「全国一律」がなくなることで、地域の特色や地域ニーズが教育に反映されることはプラス面かもしれないが、その反面、教育の地域格差や偏りが出てくる可能性も否定できない。それはそれで、市場原理を導入して地域ごとに教育レベルを競わせればいいという考えもあるだろう。
 
 だが、全国テストの結果発表をめぐり揉めた事例に見られるように、教育と市場原理は必ずしも相性がいいとは言えない。これまで、極端な標準化を図ろうとする文科省の一律管理のもとでやってきた教育関係者や保護者が、ある日突然地域色の濃い教育を受け入れられるかどうかにも一抹の不安が残る。
 
 学校理事会制度は、やり方次第では霞が関権益の引き剥がしという意味でも、地方分権という意味でも、また教育の活性化という意味でも、大化けする可能性はある。しかし、失敗すれば、中央の軛から解放されたことが逆に仇となり、地域が暴走してしまう可能性もある。何年か後になって、いろいろ問題はあっても文科省の一律管理の時代のほうがまだましだったということになりかねない、「ハイリスク・ハイリターン」の政策と言えるのかもしれない。

民主党政権の成否を握る「市民参加」

 民主党の主張する学校理事会制度がハイリスクな政策になっている理由は、いたって明快だ。それは日本では政治や行政に市民が参加する「市民参加」の歴史や伝統がまだ弱いからだ。これまで霞が関に任せきっておけばよかった時代の残滓と言えばそれまでだが、民主党が官僚支配の打破を謳っているのは、今となっては誰もが知っているはずだ。ということは、民主党政権では霞が関に代わって誰が意思決定をするのかをよく考えおく必要がある。
 
 今回の選挙では「今回は一度民主党にまかせてみるか」という話を耳にする。政権交代がなかったことが日本の政治の最大の問題点の1つであることは間違いないので、それ自体は意味のある考え方だとは思う。しかし、民主党の政策を見る限り、民主党が「まかせる」対象でないことは最低限知っておく必要がある。
 
 たしかに、法律をつくったり制度の大枠を決めるのは、政治の仕事だ。しかし、いったん法律や制度ができ、その運用段階になれば、民主党政権の場合、そこには政治は入ってこない。学校理事会がその典型だ。法律で文科省の権限を移譲し、地域ごとの学校理事会に一定の予算をつけるところまでは政治の仕事だ。しかし、地域ごとの学校理事会がどのように運営されるかは、もはや政治がコントロールできる領域ではない。
 
 前回まで繰り返し強調してきたように、民主党が掲げる政策は、どれを取ってもより多くの市民参加がなければ成り立たないものばかりだ。官僚のコントロールを切ることを最大の眼目とする同党の政策が、もし市民参加のないまま実行されようものなら、それこそ大変なことになる。これまで運転をまかせてきた霞が関に代わって誰がハンドルを握るのか。間違っても、政治家が運転してくれるなどと思ってはいけない。また、仮に政治家に運転させることがあるとしても、われわれ市民が教習所の教官のように、横から逐一その運転を監視していなければならない。
 
 私自身はアメリカナイズされすぎているからかもしれないが、何の付託も受けていない行政が、私の行き先を勝手におもんぱかって運転する車になど、怖くてとても黙って乗ってはいられない。彼らの良心を信用していないのではなく、制度がその信用を担保していないことを知っているからだ。
 
 かといって、政治家がハンドルを握る車に黙って乗っているのも怖くてしかたがない。どちらかというと、政治の役割は自動車が安全かつスムーズに流れるために道路を整備し、道路標識や信号を設置するところまでにしてもらい(政治の決定に従い、実際の舗装作業や標識を付ける作業を行政がやる)、自分の車の運転は市民一人ひとりがハンドルを握る仕組みのほうがしっくりくる。NPOなどの市民セクターが運転するバンやワゴンサービスもたくさんあったほうがいい。ただし、そのためにはまずは市民一人ひとりが運転を覚えないと話にならないことは、言うまでもない。
 
 市民参加を前提とする民主党の政策が、市民不在のまま実行されれば、もはや官僚に権限を持たせない以上、誰も明確な意思決定をしないまま、物事が決まっていくことになる。そうなれば、大混乱は必至だ。あげくの果てに、自分たちで意思決定することの負担に耐えかねて、「これまでどおり、行政が良い塩梅で決めてくれ」などと、泣き言を言い出す人や自治体が出てくるかもしれない。
 
 また、情報公開を徹底し市民参加の機会を増やす民主党型の統治形態のもとでは、意思決定に参加しない人は、法律の執行や制度の運用が、自分の意思のインプット無しで行われることになる。官僚に任せていたときは、それが民意を反映していたかどうかはともかく、一応は行政がすべての住民の利益を考えて決定をしてくれていた。だが、官僚のコントロールが無くなる以上、頼みもしないのに自分の利益を代弁してくれる人など、どこにもいない。
 
 もちろん、参加するかしないかはそれぞれの勝手だが、参加しなければ損をする可能性が大きいということだ。もっとも、頼みもしないのに誰かがあなたの利害をおもんぱかってくれるのが当たり前だったことのほうが、むしろ特殊な時代の産物だったと言うべきなのかもしれないが。
 
 民主党の政策には、行政より市民、霞が関の中央官庁より地方自治体、東京より地域への権限委譲を伴うものが圧倒的に多い。そして、民主党はそれを情報公開の徹底により本気で実現しようとしているように筆者には見える。言い換えればそれは、市民の自立(そして自律)と自治に大きな信頼を置く政策だ。そうした政策が実施されたとき、もし最も基本的な単位である市民側に意識も覚悟もなければ、民主党政権は大失敗に終わる可能性がある。
 
 現に、民主主義の伝統が弱い旧共産圏や途上国のなかには、急速に民主主義を導入してみたものの、結局それでは社会がうまく回らず、時計の針を戻すように市民の権利を制限する方向に軌道修正するケースが少なからず出ている。
 
 はたして日本の民度は、民主党の政策が提唱しているような市民参加を前提とする政治を支えられるレベルに達しているのか。それとも、まだまだ霞が関官僚に意思決定の部分まで依存しなければ、国の運営など到底できないレベルなのか。われわれはその答えをまもなく目の当たりにすることになるだろう。言うまでもないが、その答えを出すのは民主党ではなく、われわれ自身にほかならない。

最後に

短期集中連載でお送りしてきたこの「民主党政権で日本はどう変わるか」は今回をもって終了となる。
 
 公職選挙法で、選挙公示後のインターネットのウェブページの書き込みは、選挙ビラやチラシと同じ「図画の頒布」に当たると判断されるため、公示後に特定の政党について文章が書かれたページを更新する行為は、法に抵触する可能性があるからだ。
 
 公示前の記事をそのまま出しておくのはかまわないが、ページを更新すると罪になるというのは、前時代的で不可解な法解釈ではあるが、公職選挙法の解釈で幅広い裁量権を持つ総務省がそう言うのだから仕方がない。
 
 余談になるが、民主党のマニフェストには「インターネット選挙の解禁」が明記されている。つまり、今回の選挙で民主党政権が実現すれば、その次の選挙は投票日直前までウェブに新規記事を掲載することが可能になるはずだ。
 
 民主党の政策を過去のマニフェストから政策インデックス、提出法案、そして党幹部や政策担当者の発言などを全部ひっくり返して検証してきた身としては、本連載におけるわずか6回の原稿ではなかなかその全貌をお伝えすることができず、やや心残りな面もある。民主党についてより詳しいことを知りたい方は、ぜひ拙著『民主党が約束する99の政策で日本はどう変わるのか?』を投票前にご一読いただければ幸いだ。
 
 同書は民主党が主張してきた政策のなかから、筆者が重要と考えた99の政策を抜き出して解説したものだ。もちろん投票前に読んでいただくことを想定してはいるが、実は同書は民主党政権ができた後に本領を発揮することを期待して書いたものでもある。民主党が政権についた暁には、われわれ有権者は、同党が野党時代に主張し推進してきた政策の実現を迫る権利があるし、迫る義務があるはずだ。その際のアンチョコとして、あるいは備忘録として、ぜひ活用していただきたいというのが同書のもう一つの重要な意図なのだ。筆者はこれを勝手に、「民主党と市民社会の契約書」と呼んでいる。
 
 いずれにせよ、民主党がこれまで主張してきた政策については、拙著に含まれていようがいまいが、マニフェストに含まれていようがいまいが、同党が政権を獲得した際には、市民社会との契約としてその履行を皆で迫っていこうではないか。そうすることが、この選挙で政権交代が実現したとき、それを意味あるものにする最も有効な手段に他ならないのだから。
 

Wednesday August 26, 2009 at 12:44

「検証・民主党政権で日本はどう変わるのか」第5回

2009年8月15日 ビデオニュース・ドットコム

大手メディアが決して報じない、 
「メディア改革」という重要政策の中身
(ジャーナリスト 神保哲生)
 
 
・政府の記者会見をすべてのメディアに開放し、既存のマスメディアの記者クラブ権益を剥奪する。
・クロスメディア(新聞社とテレビ局の系列化)のあり方を見直す。
・日本版FCC(米連邦通信委員会のように行政から独立した通信・放送委員会)を設立し、放送免許の付与権限を総務省から切り離す。
・NHKの放送波の削減を検討する・・・等々
 
 これらの政策はいずれもマニフェストには載っていないが、民主党の正式な政策だ。記者会見の開放はマニフェスト発表の記者会見で鳩山由紀夫代表自身がはっきりと明言しているし、その他はすべて『民主党政策集INDEX2009』に明記されている。
 
 お読みいただければわかるように、民主党政権では、マスメディア自身が主たる既得権益者として改革の対象となっている。そして、不思議なことにその事実はまだほとんどの人に知られていない。

メディア改革は民主党の主要政策の一部

 知られていない理由は、大手マスメディアが民主党のメディア政策をまったくと言っていいほど取り上げようとしないからだ。これらの政策が自分たちに都合が悪いからなのか、それともこうした政策をそれほど重要とは考えていないからなのか、その真意は定かではない。
 
 メディア政策は多くの有権者に影響が及ぶし、おそらく関心も高い、けっこう重要な政策だと筆者は思うのだが、どこのマスメディアもそれを良いとも悪いとも言わない。実に不思議なことだ。
 
 7月27日のマニフェスト発表の会見でのことだ。民主党がこれまで維持してきた「記者会見を記者クラブ以外のメディアに開放する」方針がマニフェストに入っていない理由を問うた筆者に対して、鳩山由紀夫代表は「マニフェストに入れるまでもないと考えた」とした上で、「民主党政権では記者会見はオープンにする」と、政権を取ってからも記者会見を開放する方針を貫く意思を明確に公言している。
 
 ところが、翌日の新聞やテレビで、この下りを報じたところは、筆者の知る限り、1つとしてなかった。各メディアとも、マニフェストの内容や記者会見のやりとりは相当のスペースや時間を割いて詳しく報じているにもかかわらず、である。全国紙やテレビといった大手マスメディアの報道のみを情報源とする方にとって、そのようなやりとりはこの世に存在しなかったことになっているに違いない。これは民主党が、現在の日本の最大のタブーに手を突っ込もうとしていることを意味するのだろうか。
 
 民主党はすでに2002年から、党が主催する記者会見は、記者クラブに所属する既存の大手マスメディアだけでなく、雑誌、海外メディア、ネットメディア、フリーランスなど、すべての報道関係者に開放している。また、小沢一郎氏以降の代表はいずれも、民主党が政権を取ったときは、政府の記者会見は開放することを公言している。
 
 実は民主党のこの方針は、岡田克也現幹事長がまだ幹事長代理の時分に、筆者からの進言(というより、「文句」と言ったほうがより正確かもしれないが)を受けて、まず手始めに外国報道機関に記者会見を開放したことに始まる。
 
 当時、民主党の記者会見に出席できるのは野党クラブ加盟の記者に限定されていた。岡田氏はまず自身の会見をオープンとし、その後、幹事長、代表と党の階段をのぼっていく間もその方針を貫いたために、氏が代表になった段階で、民主党の会見はすべてオープンとなった。また、その過程で、対象も外国報道機関から、雑誌やネットメディア、フリーランスを含むすべてのメディアへと広がっていった。
 
 前原、小沢、鳩山と岡田氏の後を継いだ代表たちもその方針を踏襲したので、今はそれが党の方針となった。ただし、その方針がマニフェストなどの文書に明記されているわけではないので、私のような非記者クラブ記者は、常に確認を求めていく必要があり、それがわれわれ非記者クラブ記者が、大きな節目の記者会見で毎回しつこくこの質問をし続ける理由でもある(最近はフリージャーナリストの上杉隆氏が、その役割を進んでやってくれているので、私ばかりが憎まれ役をやらなくてもすむようになった)。

なぜ記者会見の開放が重要なのか

 民主主義とフリープレス(報道の自由)を標榜する国で、記者会見への出席が特定の報道機関にしか認められていないことなど、そもそもあり得ないことだ。したがって、いまさら議論をするのも小っ恥ずかしいのだが、政府の記者会見がオープンになることの意味は大きい。記者会見が大手メディアの既得権益、つまり利権の温床ではなくなり、そうなることで、主要メディアと政治家や政党、主要官僚との間の談合が通用しなくなるからだ。
 
 過去半世紀にわたり、日本には新しい大手マスメディア(全国紙や全国ネットの放送局)が登場していない。そんな業界は他にないはずだ。そんな国も他にはないはずだ。そしてその最たる理由は、記者クラブ制度をはじめとするさまざまなメディア権益が、一部の主要メディアに独占されているためだ。長年権益を独占してきたメディア企業は、いまやいずれも巨大なコングロマリットとして君臨している。日本のメディア市場に新規参入する事業者は、それらの権益なしで、巨大ライバルに立ち向かわなければならない。
 
 しかし、記者会見の開放には、大手マスメディアから既得権益を剥奪する以上の重要な意味がある。それは記者会見というものが、ジャーナリズムが基本的な機能を果たす上で、必須の要素だからだ。会見がオープンになれば、記者は政治家に何を聞いてもよくなる。厳しい質問をして政治家や党職員から嫌われても、オープンである以上、記者会見から排除される心配をしなくていいからだ。そのため記者会見が真剣勝負の場となる。
 
 夜討ち朝駆け等々、日本のメディア固有の密室談合に参加して、記事にできないインサイド情報をもらい、酒の席でそれを披瀝して悦に入るか、何でも聞けるし何でも書けるが、談合の輪には入れてもらえない記者となる道を選ぶかは、それぞれの記者の判断になる。要するに、オープンにすることでやっと記者会見が国際標準になるのだ。
 
 ところで、やや話が横道に逸れることをお許しいただければ、記者会見の開放をより実効性のあるものにするために、民主党にはもう1つやるべきことがある。それが、番記者懇談など会見以外の形で政治家と記者が日常的に接触する制度を廃止することだ。
 
 残念ながら、民主党はまだ党の主要幹部と記者クラブ加盟社の記者との間の番記者懇談を毎日のように実施している。せっかく記者会見をオープンにしても、そのような制度があれば、会見で厳しい質問をする記者や、党やその政治家に不都合な記事を書く記者に対しては、そうした一見非公式の形をとった(実は公式な)場から外すなど、懲罰的な処遇が可能となってしまう。
 
 本来、大臣や副大臣など行政の長となった政治家は公務員法に縛られるはずなので、そうした地位にある政治家が、行政の長として知り得た情報を特定の報道関係者を選別して提供する行為は、公務員法の守秘義務や中立性原則に反するものだ。
 
 日本の大手新聞社やテレビ局の記者が、夜討ち朝駆けこそがジャーナリズムの神髄であるかのようなことを得意顔で話すのをよく見かけるが、そもそも政治家や公務員が特定のメディアのみに公務員として知り得た情報を提供する行為は、他の国と同様、日本でも違法行為なのだ。

メディアの構造問題と「やれるものならやってみろ」

 記者クラブの開放を党代表が明言する一方、『民主党政策集INDEX2009』には、冒頭で挙げたように、クロスメディア(新聞社とテレビ局の系列化)の見直しや、日本版FCC(行政から独立した通信・放送委員会)の設立と総務省からの放送免許付与権限の剥奪、NHKの放送波の削減といった、メディアの世界における言わば「聖域」に踏み込んだ政策提言が続々と登場する。これらはいずれも自民党政権下では、ほとんど手つかずだった問題だ。
 
 筆者は日本のメディア業界がこうした構造的な問題を抱え、そのために国際競争力をつけることに失敗しているばかりか、ジャーナリズムの公共的な機能さえも果たせなくなっていることを、機会あるごとに指摘してきた(詳細については拙著『民主党が約束する99の政策で日本はどう変わるか?』の第18章を参照されたい)。
 
 特に「記者クラブ」、「クロスオーナーシップ」(新聞とテレビの業際保有の英語表現。民主党は「クロスメディア」と表現しているが意味は同じ)、「再販売価格維持制度」(メーカーの定めた定価での販売を小売業者に義務付ける制度。日本では独占禁止法で原則禁止されているが、例外として新聞や書籍などに認められている)のメディア特権3点セットが、産業としての、そしてジャーナリズム機関としてのメディア業界をダメにしているとして、メディアの構造改革の必要性を訴えてきた。
 
 最近筆者はこれに、政府が放送免許を直接付与する制度を改めるための「日本版FCC=独立行政委員会」問題を加え、メディア構造問題4点セットとして、問題提起を行っている。
 
 政府が放送免許を直接付与している現在の制度は、どう考えてもおかしい。報道機関を兼ねる放送局にとって、政府は監視対象のはずだ。その政府から免許を頂いていては、ジャーナリズムの機能など最初から果たせるはずがない。
 
 しかも、日本では先進国の多くが規制をしているクロスオーナシップを認め、放送局利権を新聞社に与えてしまっている。そのため、本来であれば免許も不要で権力から自由であるはずの新聞社までが、政府に取り込まれる余地を自ら作ってしまっている。
 
 そもそも、放送局が総務省から割り当てられている電波は、国民の資産である。それを一行政機関にすぎない総務省が、誰に与えるべきかを勝手に決めているのもおかしい。そこで、市民の代表たる独立行政委員会を設置し、真に国民の利益に資する形で電波が利用されるよういろいろ工夫しようというわけだ。アメリカのFCC(連邦通信委員会)に見られるような独立行政委員会の形態については、ぜひ別の機会に詳報したい。
 
 新聞社が再販売価格維持制度を通じて政府の保護を受けていることも、新聞社の経営は大いに助けているが、その分日本のジャーナリズムを政治に対して脆弱にしている。先進国でいまだに新聞社を再販制度によって保護している国は、日本くらいのものである。
 
 もちろんクロスオーナーシップによって、一握りのメディア企業に力が集中し、結果的に新規参入が不可能になっているという問題もある。
筆者は民主党のメディア改革に関する政策提言は、もう何年、いや何十年も前に行われていなければならなかった、当たり前過ぎるくらい当たり前のものにすぎないと考えている。むしろ、個人的にはまだまだ甘いと思っているくらいだ。
 
 しかし今のところ、改革対象となっている当の大手マスメディアは、民主党のメディア関連政策をほとんど黙殺し、良いとも悪いとも言っていない。ちょっと不気味である。「触らぬ神に祟りなし」なのか、決戦の狼煙があがるまでは力を温存しているのか。いやむしろ、「できるものならやってみろ」と、高を括っている可能性が濃厚だ。何せメディア利権というものは、過去半世紀にわたり、一度も脅かされたことのない、日本の最後にして最大の権益と言っても過言ではないほど、巨大な利権なのだ。
 
 その意味で民主党は、大変リスキーな政策を打ち出していると見ることもできる。なぜならば、この政策によって民主党政権は、強大な大手マスメディア全体を敵に回す可能性が大いにあるからだ。

メディアを敵に回すことのリスクをどう考えるか

 民主党が政権を獲得した際、マニフェストや政策集で公約した政策を実現していくためには、その過程で生じるさまざまな対立や摩擦を乗り越えていかなければならない。
 
 特にいろいろなところから財源を見つけてこなければならない最初の4年間は、おそらく既得権益剥がしの4年になるはずだ。それがどれほどの抵抗に遭うかは、想像に難くない。いや、きっと想像を絶するものになるだろう。小泉政権下における道路公団や郵政民営化騒ぎの際にも、また最近では内閣人事・行政管理局の局長人事でも、われわれは抵抗勢力の凄(すさ)まじさと強(したた)かさを目の当たりにしてきた。
 
 民主党の既得権益剥がしが本当に実現できるかどうかも、やはり小泉政権が1つのモデルを提示している。中身の評価はともかく、どんなに「抵抗勢力」の抵抗が激しかろうとも、世論の後押しを受けた政権が本気になれば、何だって為せば成るということを、小泉政権は身をもって証明したのではないだろうか。つまり、われわれ市民が民主党のチャレンジする政策をどこまでサポートするかに、その成否はかかっていることになる。
 
 しかし、である。その際に、マスメディア報道が市民に与える影響はかなり大きいのではないか。われわれの多くは、依然として、政治、経済、社会など世の中のあらゆるできごとに関する情報を、大手マスメディアから得ているはずだ。そうしたメディアの報じ方次第で、改革に抵抗する勢力が、既得権益に胡座をかいた腹黒い拝金主義者集団に見えることもあれば、逆に、誤った改革を阻止するために身を挺して戦う正義の味方に見えることもあるだろう。
 
 たとえば、明らかにムダの温床となっている特殊法人を、民主党政権が公約に則って廃止しようとしたとする。主要メディアが、その特殊法人が天下りの温床として、いかにこれまでムダを垂れ流してきたかを、実態を含めて詳しく報じれば、たとえ特殊法人側が激しく抵抗しようとも、多くの人は民主党の政策を最後まで支持するに違いない。
 
 しかし、逆に主要メディアが、その特殊法人が多少は意味のある活動もやっていた(どんなに無駄な事業でも、それがまったくなくなれば困る人は多少はいるものだ)という事実や、その特殊法人が解散させられることで、倒産の憂き目に遭う取引業者(何の罪もない下請けの清掃業者など)に焦点を当てたリポートなどを次々と流せば、次第に民主党への市民のサポートが細ってしまう可能性はないだろうか。
 
 ウェブを含めた多様なメディアから情報を入手できる時代になり、われわれの多くは大手マスメディアのデタラメな報道についてかなり見抜けるようになってきてはいる。しかし、もし主要メディア、つまり日本中の新聞社とテレビ局と通信社(主に地方紙に全国の記事を配信している共同通信社と時事通信社)が、こぞって民主党の改革に対してネガティブ・キャンペーンを張り始めたとしたら、はたしてわれわれはそれを見抜き、民主党の政策を支持し続けることができるだろうか。
 
 民主党が日本をよりオープンでフェアな社会に変えていく一環として、マスメディアを改革の対象としていることは、十分評価に値する。今日、日本が多くの問題をなかなか解決できない理由の少なくとも一端には、日本で真に公正で公共的なジャーナリズムが機能していないという事実があると筆者は考えている。おそらくその点には、多くの人が同意されるだろう。
 
 しかし、民主党政権が現実となった際の政策の成否が、主要メディアの報道に影響される面が少なからずあることもまた、否定できない事実だ。
 
 その意味で、民主党政権が、前門に改革に抵抗する既得権益勢力を抱えながら、後門にも大手マスメディアというもう1つの敵(既得権益勢力)を抱えなければならなくなる可能性があることを、心配せずにいられない。歴史を見ても、2正面作戦が失敗に終わることは少なくない。
 
 何にしてもまず、民主党政権では大手マスメディア自身が、主たる既得権益者として改革の対象となっているという重大な事実が、広く認識されることが必要だ。そうすれば、そのメディアが伝える報道内容に注意が必要になるという認識は、すぐに広まっていくはずだ。少なくとも現時点では、そうはなっていないように思う。
 
 特に民主党のメディア政策に関する報道を見るときは、それを報じている当人が改革の対象となっていることを、片時も忘れないでおいて欲しい。

Wednesday August 26, 2009 at 12:12

「検証・民主党政権で日本はどう変わるのか」第4回

2009年8月7日 ビデオニュース・ドットコム

「理念」を掲げれば票が減る? 
人気優先マニフェスト選挙のジレンマ
(ジャーナリスト 神保哲生)
 
 
 マニフェスト選挙が、単なる「ショッピングリスト(買い物リスト)選挙」に成り下がってしまっている。このままでは政権選択選挙というよりも、「子ども手当選挙」だったり、「農業者戸別所得補償選挙」や「高速道路無料選挙」になってしまいそうだ。
 
 筆者が本連載の第1回目から指摘しているように、民主党の政策にはかなりはっきりとした理念的裏付けがある。それがこれまでの日本の政治との大きな違いだと筆者は思っているし、その理念を掲げた政党が政権の座につくことがあれば、政権交代はさらに大きな意味を持ったものになると考えている。
 
 その意味で、今回の民主党のマニフェストには、どうしても不満を禁じ得ない。発表されたマニフェストはよく練られてはいるのだが、結局、政策が羅列してあるだけで、これを読めば民主党が日本をどう変えようとしているかが誰にでもわかるような内容にはなっていない。もっとも、そうなることが予測できたからこそ、『民主党が約束する99の政策で日本はどう変わるか?』<という本を刊行し、本連載も書いているのだと言えばそれまでなのだが。

この際だからマニフェストの問題点を語ろう

 筆者は民主党の結党以来、その政策に関心を持ち、取材を続けてきた。民主党の政策については、現在のポジションのみならず、そこに至る経緯や背景も、それなりに理解しているつもりだ。その筆者から見て、今回の同党のマニフェストは、予想どおりとは言え、やはり物足りないものだった。
 
 1つお断りしておくが、財源問題などを取り上げて、民主党のマニフェストに挙げられた個別の政策を叩くことが、ここでの私の真意ではない。私が批判したいのは民主党の政策ではなく、マニフェストのあり方そのものだ。今回のマニフェストでは、民主党の政策の背後にある理念や哲学が十分に伝わらないばかりか、民主党政権がどのような政権になるかについて、誤解を生みかねないからだ。
 
 その背後には、現在の日本のマニフェスト選挙の限界がある。民主党は意図的に、自分たちの主張や理念を前面に出さないマニフェストを作成したのかもしれない。なぜならば、今の日本では、マニフェスト本来の目的である政党の理念や哲学を前面に出すと、むしろ選挙で不利になる可能性が大きいからだ。そこにこそ、現在の日本のマニフェスト選挙が内包する本質的な問題がある。

政権政党はマニフェストに書いてあることしかやらないわけではない

 そもそもマニフェスト(manifesto)はイタリア語の「宣言」「宣言書」を意味する言葉だ。『共産党宣言』(The Communist Manifesto)がその好例だろう。今回問題にするマニフェストは選挙用のマニフェストなので、「政治宣言」である必要がある。言うまでもないが、単に個別の政策を羅列しただけでは、何かを宣言したことにはならない。宣言とは、そうした個別の政策を通じて、その政党がどんな国をつくり、どのような方向に国を導いていくかという理念や哲学を明らかにすることだ。
 
 しかし、民主党に限ったことではないが、現在の日本の政党のマニフェストは、有権者に受けのいい政策だけを羅列した「政党の選挙用広報資料」に成り下がってしまっている。
 
 単なる政策集としてのマニフェストには、実はそれほど意味がない。なぜならば、政党はマニフェストに書いてある政策しか実行しないわけではないからだ。たしかにマニフェストに書かれた政策は政権公約として優先的に実行されるだろうし、実現できなければ、無論、政治責任が生じる。
 
 しかし、だからといって、マニフェストに書いてあることしか我々はやりませんとは、どこにも書いてないし、誰もそんなことは言っていない。ということは、その政党が政権を取ったときにどんな政策が実行されるかは、実はマニフェストだけを見てもわからないことになる。
 
 もし民主党が政権を取れば、マニフェストに書かれたもの以外にも、いろいろな政策が実行されることになるだろう。それは、これまで民主党が主張してきた政策や提出してきた法案が物語っている。政権を取った瞬間に、これまでの主張をすべてご破算にして、まったく新しい政党としてやり直しますなどということがまかり通るはずがない。
 
 そして、民主党のマニフェストの問題は、むしろそこに書かれていない政策のなかに、同党の哲学や理念を色濃く反映する政策がたくさん含まれていることだと筆者は考えている。つまり、今回のマニフェストは民主党の理念や哲学を代表していないばかりか、むしろ誤った印象を与える可能性さえあるというのが筆者の懸念なのだ。
 
 ここ何年かの間に民主党が国会に提出した法案や、主要幹部ならびに政策担当者の発言などを通じて主張してきた主な政策のうち、マニフェストから外れたものをざっと挙げただけでも、以下のようなものがある。
 
・選択的夫婦別姓の導入
・婚外子の相続差別撤廃
・国民全員が確定申告をする新しい税制
・学習指導要領や教科書検定を事実上廃止
・靖国神社に代わる国立戦没者追悼施設の設置
・戦争責任の明確化
・メディアのクロスオーナーシップ(新聞社によるテレビ局保有)の見直し
・放送免許の付与権限を総務省から離し、新設される独立行政委員会(日本版FCC)がその権限を持つ
・政府記者会見の記者クラブ非加盟メディアへの開放
・成人年齢の18歳への引き下げ(投票権を含む)
 
 意外に思われた方も多いかもしれないが、これらはいずれも、民主党が近年法案提出などを通じて推進してきた政策だ。そのほとんどが、マニフェストの元になった党の政策集『民主党政策集INDEX2009』など、党が公開している政策集には明記されている。
 
 要するに、マニフェストには入れない──つまり選挙用のウリにはしないし、政権公約ともしないが、民主党が主張してきた政策がかなりあるわけだ。そして政権を取ったら、いよいよその実行に向けて動き出す段階にあるといえよう。
 
 これらの政策には国民生活に大きく影響するものや、一般市民の関心が高いと思われるものも多い。そして、何よりもこれらは党の理念や方向性を明確に示している。問題は、なぜこれらの政策をマニフェストから外さなければならないのか、だ。

都合のよい部分だけ抜き出しても政権の姿は見えてこない

 選挙は実に難しい。民主党の政策パッケージ全体を見ると、ここに挙げた政策も含め、かなり明確な路線が見えてくる。しかし、それを明確に打ち出すと選挙では不利になると考えられているため、民主党は路線や理念が前面に出てくるタイプの政策は極力マニフェストから外し、給付などで受益者が多く、国民受けのいい政策を主に入れてきているのだ。
 
 それはそれで選挙対策としては当然あり得る戦術だろう。しかし問題は、マニフェストが必ずしも民主党の理念を代表する政策をピックアップしたものになっていないため、結果的に民主党政権下の日本の姿が有権者から見えにくくなってしまったり、政党のアイデンティティが誤解されてしまったりすることだ。
 
 たとえば、マニフェストに含まれた子ども手当だの農業者戸別所得補償だのといった給付政策には注目が集まるが、それがどのような理念に基づいて実施される政策であるかが見えないため、単なるバラマキの印象を与えてしまっている。筆者に取材を申し入れてくる記者の多くも、「子ども手当は単なるバラマキ政策ではないのか?」との質問を向けてくる。
 
 子ども1人当たり毎月2万6000円が世帯所得に関係なく無条件で支給される子ども手当は、多くの家庭にとって大ごとであることは間違いない。いろいろなメディアが取り上げるのも無理からぬことだろう。しかし、この子ども手当も、民主党の政策パッケージ全体の枠組みのなかに位置づけると、少し違って見えてくるはずだ。
 
 民主党は、生殖医療への保険適用拡大から出産費用の補助拡大、そして中学卒業までは月額2万6000円の子ども手当、高校は公立高校の無償化、大学は生活費までカバーできる奨学金の大幅拡充といった一連の政策を用意している。つまり、生まれてから(正確には生まれる前から)大学卒業に至るまで、日本に生まれた子どもが高等教育を受けるところまでを政府の責任と位置づけ、本人にその気さえあれば、面倒を見ることを保障しているのだ。かつて社会保障大国だったイギリスが「ゆりかごから墓場まで」と言われたことがあったが、民主党はゆりかごよりもさらに遡り、「人工授精から大学卒業まで」をある程度まで国の責任で面倒見ようと言っているわけだ。
 
 生殖医療については、不妊治療やライフスタイルの多様化による高齢出産が増えていることを踏まえた施策だし、出産費用も現行の35万円ではカバーしきれないため、経済的負担ゆえに子どもをつくらない家庭が増えていることを踏まえてさらに20万円上乗せするという。ゼロ歳から15歳の中学卒業までは1人当たり月額2万6000円の子ども手当で手厚く子育てを支援し、高校は経済的な理由から高校進学を断念しなければならない子どもが1人も出ないように公立高校を無償化(私立の場合も学費を一部支援)、大学も同じく経済的な理由で進学を諦める子どもを出さないように奨学金を大幅拡充する。
 
 さらにたどっていけば、民主党は子育てに父親が参加しやすくするように、仕事と市民生活のバランスを重んじるワーク・ライフ・バランスや父親の育児休暇取得を促す(当初は義務づけるという話まであったがトーンダウンした)「パパ・クォータ」といった制度の導入まで提唱し、それに関連した施策も次々と打ち出してきた。
 
 あるいは、これもまたマニフェストからは外れたが、結婚で多くの女性が苗字を変えなければならない(日本では妻が夫の姓に変更するのが婚姻カップル全体の96%)ことのディメリットを最小化するための選択的夫婦別姓制度や、事実婚を容易にする非嫡出子の相続差別撤廃など、民法の改正にまで踏み込んでいるのが民主党なのだ。
 
 ここまで読めば、民主党の政策に通底する何らかの理念を多くの人が感じるだろうし、そのなかに位置付けられた子ども手当をただのバラマキ政策だととらえる人もかなり減るのではないか。しかし同時にこれらの政策は、民主党がたぶんにヨーロッパの社民主義的な再分配政党の顔を持っていることを示している。そこにこれまで知らなかった民主党の顔を見出す人も多いのではないか。
 
 また、靖国神社や戦没者追悼施設に対する考え方、戦争責任に対する考え方などでも、民主党は自民党政権とは明らかに一線を画する路線を取っている。これもまた、マニフェストからは見えてこないが、民主党の哲学や理念を知る上では重要な政策になるはずだ。
 
 要するに、もし民主党のマニフェストにバラマキ感を覚える人がいるとすれば、それはおそらく、明確な理念に基づいて打ち出している一連の政策のなかから、有権者受けしそうな政策だけをつまみ食いして羅列していることに、その主たる原因があるのではないかと、筆者は考えている。

1票は愛されても増えず、嫌われると減る

 さて、マニフェストには載っていないこうした民主党の政策を知って、民主党に惚れ込む人もいれば、急に民主党が嫌になる人もいるに違いない。そもそも最初から民主党が嫌いな人は、民主党のマニフェストも読んでいない可能性が高いし、本コラムも読んでいただけない可能性が高いので、民主党は嫌いだったけれど、本コラムを読んで逆に好きになったという人はほとんどいないと仮定しよう。
 
 その場合、本コラムの内容は選挙戦略的にはどういう意味を持つだろうか。もともと民主党を支持していた人が、この記事を読んでより強い民主党支持になったとしても、その人はもともと民主党に投票するつもりだったのだから、たいして民主党にはプラスにならない。いくら支持の度合いが強まっても選挙で2票入れられるわけではない。できることは、せいぜい知り合いに薦めることくらいだろうか。
 
 一方、もともと民主党に投票しようと考えていたけれど、ここに書かれた内容を知って投票したくなくなった人がいれば、その人の分は確実に票が減ることになる。場合によっては、対立政党のほうに票が流れてしまうかもしれない。そう考えると、2票分のマイナス効果になるかもしれない。
 
 要するにマニフェスト選挙では、政党や候補者が旗幟を鮮明にしすぎると不利になりがちなのだ。だから、あまり理念を前面に出すことはせず、個別の政策で1人でも多くの有権者を「釣る」ほうが得ということになる。最大公約数的に支持を受けやすい政策を前面に出したほうが得で、理念や哲学を掲げ、支持・不支持が明確に分かれる政策を前面に出すと損をすることになる。
 
 肉じゃがとかカレーと言ってしまうと好き嫌いが出かねないが、豚肉、タマネギ、ニンジン、ジャガイモなどと、個別の材料を言っておけば、タマネギが好きな人はそれだけにつられて投票してくれるかもしれないというわけだ。たとえその人が、実はカレーが嫌いな人だったとしても、だ。
 
 もうおわかりだろう。このやり方の問題は、個別の政策に反応して投票行動を決めた場合、いざ民主党政権ができたときに有権者にとって「こんなはずじゃなかった政権」になる危険性があるということだ。材料だけを見て、きっとこれは甘みの効いた肉じゃがに違いないと思って食べたら、実は激辛カレーだったなんてことになりかねない。

「まかせる政治」に慣れすぎた有権者

 しかし、なぜ日本のマニフェスト選挙が、そのような「ショッピングリスト選挙」になってしまったのだろうか。筆者は、これは政党側の問題というよりも、むしろ有権者とメディアの問題だと考えている。
 
 旗幟を鮮明にすれば得票上は損になるのであれば、どんな政党だって、理念だの哲学だのは掲げたくないはずだ。しかし、もしも「この政党の個別の政策にはいいものもあるが、この政党の政権の下で日本がどんな国になるのか、その全体像が見えなければ、危なくてそんな党には政権を渡せない」と考える有権者が多くなれば、理念を明確にしないことが政党にとってより大きなリスクになる。
 
 要するに、まだ日本の有権者の多くは、日本をどうするといった大きな哲学や理念よりも、損得勘定の対象となる個別の政策を出したほうがよく釣れる(と政党が考えている)ということだ。
 本コラムで前回まで議論してきたように、日本ではこれまで「まかせる政治」がまかり通ってきたため、私たち日本人には選挙で政党に国の進路を問うなどという経験はほぼ皆無だ。だから、いきなり路線だの理念だのを訴えられても、それをどう考えていいかわからないのかもしれない。それはある程度やむを得ない面もあるだろう。
 
 しかし、きたる総選挙が単なる個別政策メニューの差し替えではなく、21世紀の日本の針路を問う重要な選挙であることは、有権者として忘れてはならない。政権交代の是非も大切だが、政権を交代して針路をどう変えるのかがわからなければ、何のための政権交代かということになってしまう。

政策報道をお座なりにしてきたメディアのツケ

 日本のマニフェスト選挙がおかしなことになっているもう1つの原因はメディアである。メディアが政局ばかりを追いかけ、政策を軽視してきたことのツケが、マニフェスト選挙にも暗い影を落としている。
 
 まず、メディアはマニフェストそのものは参照しているようだが、驚いたことにそれしか参照していないメディアが多いのもまた、事実のようだ。
 
 たとえば、筆者は最近多くのメディアから、「子ども手当はいいが、それで何をやろうとしているかわからない」といった類の質問を受ける。そこで前述のように、生殖医療(時間があるときは夫婦別姓)まで関連づけて民主党の政策パッケージの全体を解説し、その文脈のなかに子ども手当が入ることを説明する。すると、そんなことは初めて聞いたという顔をする記者が少なくない。
 
 民主党の政策パッケージは、党が毎年出しているINDEXにも明記されているし、これまで同党が国会に提出してきた法案を見れば明らかなものばかりだ。どうも、ここにきて、日本の政治メディアが政治を政局と履き違えて報道し続けてきたことの重いツケが回ってきているようだ。
 
もともと日本の報道機関には、政党の政策を継続的に取材し、これを分析する専門の部署が存在しない。政治部は記者クラブのなかで日々の政局を追うことに手一杯で、そのためマニフェストに関する企画は、新聞社においてはこれまで民主党の政策を取材してきたわけではない特報班が、テレビ局においては、これもまた政策をウオッチしてきたわけではない番組ディレクターが担当している場合が多い。そのため、どうしても付け焼き刃感が否めない。
 
要するに、有権者も選挙で政党の理念や哲学をどう問題にしたらいいのかわからず、メディアはメディアで、そもそもそれらを扱い得るマインドや裏付けとなる知識を持っていない。そんな状況で表層的な報道合戦が行われるのであれば、政党としても、リスクの高い理念などを打ち出すよりも、話題性のある個別の政策を羅列しておいたほうが、よほど効果的でリスクも小さいということになる。その個別政策にまた有権者やメディアがつられてしまう。まさに悪循環である。
 
 筆者は、民主党の政策全体を見渡したとき、「官僚にまかせる政治から市民が引き受ける政治」への転換の意図を明確に感じ取ったし、また「オープン・アンド・フェアネス」によって、日本をより開かれた、フェアな国に変えていこうという意図も、はっきりと見て取れた。これが鳩山由紀夫代表が言うところの友愛の精神にも通じるものだと考えている。
 
 きたる総選挙を真の意味で政権交代を問う選挙にするためにも、ぜひとも日本のマニフェスト選挙に潜む悪循環の構造を断ち切りたいものだ。

Thursday August 20, 2009 at 16:19

“つまり、自分の頭で考えるために、本を読めと大人の男に訴えているのである。なんだかあたりまえの事を言っているだけのような気がするが、考えてみたら日本の大人の男というのは自分の頭でちゃんと考えてこなかった人がすごく多いだろうなと思う。簡単に言えば金儲けのことばかり考えて人間のあり方というものを考えてきた人があまりいないということだ。それも個人的にではなく、日本人のあり方として、というレベルのことを。
「金儲けのことだけでなく人間のあり方のことも考えろ」という主張は全くそのとおりだなとは思うが、逆に私などは金儲けのことをちゃんと考えてきてないので全然時代遅れだったのだが、逆に三周遅れくらいで先に走っているということになっている・・・といいなと思う。オバマの登場は、経済の時代の終わりと理想を語る時代の始まりを告げていると思っていたが、オバマの登場自体が近代のどん詰まり、経済の時代の終焉によってもたらされたのだと考えるべきなのかもしれない。面白い時代になってきたのかもしれないと思う。”

Wednesday August 19, 2009 at 16:49

“また、孫社長は、決算会見に出席した記者・アナリストに対して、iPhone 3GSを所有しているかどうか挙手を求めたが、あまりにも少ない結果を見て、「みなさん人生観を変えた方がいい。PC人間だった私が、PCを使う頻度が10分の1になり、インターネットに接続する頻度は10倍以上になった。iPhoneなしでよく生きてきたなと思っている。PCやインターネットに出会った時に匹敵する感動があった。みなさんがホワイトカラーだと思うのならば、一度iPhoneを使ってみてほしい。その上で、iPhoneの批判ができるのであれば、頭がどうかしていると思う。iPhoneを見て感じるのは、織田信長は鉄砲を見て『鉄砲の時代がくる』と感じたこと。しかし、刀を持っている人のなかには、それにこだわり続けた人もいた。モノの見方の次元が違うということであり、鉄砲を知る立場から見れば、それは可哀想なことだ」などとした。”

ソフトバンク、四半期ベースで最高の営業利益に - ケータイ Watch

サービストークが上手いなぁ。かなりオーバーだけど大きな突っ込み所も無い。

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Friday August 07, 2009 at 10:46

“私たちはものをじっくり眺めた方がよりよい判断ができると考えがちですが、「好き・嫌い」といった判断であればかえって時間は短い方がよいということが言われています。こうした一瞬の判断力は最近ではシン・スライシング(Thin Slicing)と呼ばれていて、芸術品の真贋を見分けることから、人生の伴侶を選ぶときまで、さまざまな時に援用できることがしられています。”

【連載】佐々木正悟×堀E正岳 ライフハック・トーク (1) 未読1000件を10分で読めますか? | エンタープライズ | マイコミジャーナル (via 1031s) (via usaginobike) (via nemoi) (via kml) (via gkojax) (via appbank)

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Monday August 03, 2009 at 19:59

(リッツ・カールトン日本支社長の)高野さんが従業員教育にもっとも力を入れていることは、「日常的にネガティブな言葉を使わないこと」だそうです。

それがサービスの質を高め、成功するのに1番簡単な方法だという結論でした。

たとえば、ネガティブな言葉とは、「うざい」「きもい」「疲れた」「やる気がない」「あいつ嫌い」「どうしようもない」「あいつバカ」という言葉です。

こういった言葉について、まず大事なことは「ネガティブなことを言わない努力」をすることです。当然、私たちもネガティブなことを言いたくなるときはあります。そのときには、どうやったら言いたくなる状況をなるべく少なくできるのかを遡って考え、環境自体を変える努力をしていくのです。

言葉でごまかさずに、行動レベルに落としていくことを繰り返すわけです。

起きていることはすべて正しい(勝間和代)

日本は言霊の国だからな。僕も反省しなくては。

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Monday August 03, 2009 at 14:01

今日現在のナガオカの「10点満点の宿」の採点項目を、確認の意味で書き出してみたいと思います。

(1時間経過)

さて、書きます。思ったより難しい・・・・。(汗)


1 スタッフに素人がいないこと。

(マニュアル通りに説明されたら、料理も冷めてしまいます。やはり、経験は空気を読めるようになりますね)

2 自慢を明確に打ち出せること。

(総合で勝負するのは高度すぎるので超一流にまかせ、温泉なのか、料理なのか、眠りなのか、ロケーションなのか、どれかふたつくらいにしたほうがいいと思います。全部を自分で満点評価したパンフレットがありますが、あれほど冷めるものはありません)

3 自分たちらしさをわかっていること。

(東京の名物ホテル「山の上ホテル」の最大の失敗は、別館のリニューアルの際にパークハイアットばりのラグジュアリーな部屋を何部屋か作ってしまったことでしょう。そういう要望が強かったと、聞きますが、ここは、それに答えて「らしく」なくなっていくことを避けるべきだったんじゃあ・・・・)

4 地のものが食べられること。

(なんだかんだ言って、その土地らしいものを食べたいのです。食前酒にフランス産の・・・みたいなものを出してくる旅館もありますが、かなり冷めます)

5 静かなこと。

(贅沢を突き詰めていくと、こういうことになってきます)

6 創業者のこだわりが見えること。

(とりあえず、創業者の顔が見える宿は、安心します。もっと言うと、現役でフロントに立っているような宿は、その会話も楽しめます)

7 ものすごくシンプルに「気がきいてるな」と思える体験が3回できること。

(これもなかなか難しいですが、応対でマニュアルにない笑顔で接してくれたりするだけで、僕はOKです。(笑) マニュアルは誰でも見抜けます。あぁ、自分とオリジナルに対話してくれているなという会話は、やはり、すぐに誰でもわかりますから)

8 眺めがいいこと。

(どんなでも、極端に言えばいいです。川の眺め、橋の眺め、街の眺め・・・)

9 普段の参考になるデザインがあること。

(大抵は、普段の参考にもならない、奇抜で使いづらいものが、デザインとして採用されていることが多いです。このこと自体、とても高度なレベルの高いことです。普段にない、日常に取り入れられるセンス。これがあると、とにかくニッコリしてしまいます)

10 備品が壊れていないこと。

(高望みはしません。(笑) 壊れているものを置き続けるのは、なんの足しにもなりません。壊れていても、使えるからいいと思っていても、壊れていることに気がつかなかったとしても、ダメでしょう。ランプシェードに穴があいていたり、トイレットペーパーホルダーのねじが緩んでいたり・・・・・。たぶん、これが一番、難しいことだと思います)

11 清潔であること。

(書き出すと、きりがありませんね(笑) あるホテルで浴槽にお湯を貯めて、さて入るかと思って湯船につかって、その内側にザラッと垢が・・・・・。クレームもいれるのも面倒で、自分で洗いましたが、なんだか悲しくなってきました・・・・)

12 挨拶がしっかりできること。

(あいさつが変なホテル、多いです。最近)

13 業者に頼り切らないこと。

特に思うのは、同業だから言いますが、グラフィックデザイン物に、とんでもないものが多いです。超魚眼レンズでワイドに撮った室内は、とても広々と見えます。これは詐欺だと思います。イメージよりタチが悪い。あと、コンセプトを細かく説明するコピーライターの原稿。特に鼻につくのは「こだわり」「洗練」「上質」などの言葉を着せること。はっきり言って、「こだわってあたりまえ」です。閉店したのに「炊きたて」と、のぼりを旗めかせているお弁当屋と一緒です。自分で言えないことや出来ないことを、オートメーション化すると、誰かに丸投げで、イメージを作らせると、とても鼻につきます。昨日泊まったホテルも、かなりダメでした。


と、ここまで書いて、なんと自分でも出来ていない事が多かったか・・・・・。がんばります。(汗)

復刊する「d デザイントラベル」誌は、自分ですべて体感して、原稿化したいと思っています。素朴で、まじめで、センスのある宿、店、もの。たくさんおすすめします!!

— 今日現在のナガオカの「10点満点の宿」の採点項目

Monday August 03, 2009 at 12:19

「会社は何のために存在するのか。皆難しく考えるけど、オレにすれば難しいことなど何もない。人間すべての営みは人が幸せになるためにある。企業や組織、あらゆる団体は人間が幸せになるために作ったものじゃないのか」


「どんなに儲けている会社があったって、従業員が貧しくて、社会に失業者が溢れていれば、それには何の意味もない。世界一売る小売りが米国にあるけど、従業員の10%近くが生活保護を受けているという。それで『エブリデイロープライス』。いったい何なのって思わないかい」


「会社の目的は売上高や利益を伸ばすことではなく、社員を幸せにしたり、世の中をよくしたりすること。売上高や利益はそのための手段でしかない。商品やサービスを通して社会に貢献していくのはもちろん重要だよ。でも、それは企業の役割の1つであって、すべてではない。会社はもっと露骨に人の幸せを考えなきゃいけない」


オフィス環境がよくなった。駐車場が広くなった。食堂がきれいになった——。どんな些細なことでも、「前よりよくなった」「幸せになった」と従業員が感じられれば、それがモチベーション向上につながるのではないか。「売り上げが増えることが成長ではない。『何かがよくなった』と従業員が実感できる。それが、会社の成長だとオレは思う」


「彼らだってあと50回くらいしか花見はできない。それが分かれば、真剣に桜を見るだろう。限りある時間を理解すれば、1日1日を大切に生きる。時の流れははかない。そのはかなさを考えてほしい」


「払うべきものをきちんと払って、使うべきものにしっかりと使う。そうすれば、最終的に得をするんだよ」


成長は急であってはならない。企業の成長は年輪を重ねるように、地道なものでなければならない。そして、身の丈に合った腹八分の成長でなければならない。
「どんなに厳しい環境だろうが、年輪ができない年はないでしょう。それは企業も同じこと。木が年輪を積み重ねるように、緩やかに強くなればいい」

— 伊那食品工業 塚越寛氏(71歳)

Sunday August 02, 2009 at 20:02

『守(しゅ)』『破(は)』『離(り)』とは 指導者から何かを学び始めてから、ひとり立ちしていくまでに人は、『守』・『破』・『離』という順に段階を進んでいきます。

『守』
 最初の段階では、指導者の教えを守っていきます。 できるだけ多くの話を聞き、指導者の行動を見習って、指導者の価値観をも自分のものにしていきます。 学ぶ人は、すべてを習得できたと感じるまでは、指導者の指導の通りの行動をします。 そして、指導者が「疑問に対して自分で考えろ」と言うことが多くなったら、次の段階に移っていきます。

『破』
 次の段階では、指導者の教えを守るだけではなく、破る行為をしてみます。 自分独自に工夫して、指導者の教えになかった方法を試してみます。 そして、うまくいけば、自分なりの発展を試みていきます。

『離』
 最後の段階では、指導者のもとから離れて、自分自身で学んだ内容を発展させていきます。

Sunday August 02, 2009 at 18:58

“「愛とは、相手に合わせる心である」これは、
鎌倉時代の臨済宗の僧侶、無住が言った言葉です。
恋愛中なら、お互い相手に合わせることもできますが、
熱もさめてくると、相手に合わせることができなくなります。
もちろん無性の言う「愛」とは、夫婦ばかりではなく、
親子愛、師弟愛、友愛など、さまざまです。
また「愛」とは、自分の立場を捨てて、
相手と同じ境遇になって協調できる心です。
社会生活で言えば、
立場が上の者や専門家が、
下の者や弱者守るということです。
お釈迦様は「六法礼経」というお経で、
六法礼とは、東西南北、下上を拝むということで、
それに六種類の人間関係を当てはめています。
「親子」「師弟」「夫婦」「友人」「上司と部下」「聖職者と衆生」です。
すべて「同時の心」である、
相手と同じ境遇に立って相手の心と協調しなさいと教えられます。
これすなわち人間関係の基本なりと。”

Sunday August 02, 2009 at 18:51

“これからの時代は空想ではなく、体験だ。イメージではなくて、実際なんだと思う。目に見えないものに憧れてしまいがちな、いわゆる未来だけれど、やはり、かなり泥臭いところにしか、人間は生きられないように思う。
雑誌の広告枠をとんでもない高額で買い、時間のない中でデザイン事務所に任せ、他人を代表したコピーライターに、当たり障りのない褒め言葉のようなコピーを書いてもらった広告なんて、もう、生活者はみないのだ。そんなものでものを買ったりはしない。問題は発信するその会社が「そうしているか」を感じとれるかどうかであって、作り込んだイメージなんかで、人は動かない。”

そこで思うのだ。「写真と違う」と。 | ナガオカ日記 | D&DEPARTMENT

Saturday August 01, 2009 at 17:55

「検証・民主党政権で日本はどう変わるのか」第3回

2009年7月31日 ビデオニュース・ドットコム

再分配の優しさと国民総背番号制の冷たさを併せ持つ
民主党のフェアネス政策
(ジャーナリスト 神保哲生)

「フェアネス(fairness)」とは、フェアプレー精神の「フェア」の名詞形だ。「公平」を意味する「フェアネス」は、民主党の政策パッケージ全体 の理念的支柱である「オープン・アンド・フェアネス」の一翼を担うもので、諸政策に通底する理念となっている。民主党が打ち出している政策の多くには、日 本社会を、より「フェア」な社会に変えていこうとする姿勢が色濃く反映されている。

一般的に「フェア」であることは好ましいことと思われているはずだ。実際に公平さという意味でのフェアネスは、民主主義という政治体制においても、自由主義経済という経済体制においても、非常に重要であることは間違いない。

しかし前回述べたように、民主党の主張する「オープン」や「ディスクロージャー」が、単に政府をガラス張りにするだけでなく、市民側にも開示された情報を活用する責任を生じさせるのと同様、フェアネスもまた、市民社会に対して厳しい課題を投げかけるものといえる。

社会全体がフェアであるためには、既得権益を放棄しなければならない場合が多いだろうし、フリーライダー(ただ乗り者)も厳しく追及されることになる。そ れ自体も一見良いことのように聞こえるかもしれないが、問題は自分自身が既得権益者であったり、フリーライダーであることに対して、われわれ自身が必ずし も自覚的であるとは限らないことだ。

まず、一言でフェアネスと言っても、民主党のフェアネスには以下の3種類が存在する。

1)機会均等
2)未来への責任
3)フリーライド(ただ乗り)禁止

このいずれにも、フェアであることの美しさと厳しさが同居している。フェアネスはけっしてきれい事だけでは済まされない。

機会は保障するが、結果は保障しない民主党のフェアネス

まず一番目の「機会均等」は、政治学的にも重要な概念で、これと対比される概念として一方で「結果均等(結果平等)」が、もう一方で「自由放任」や「市場原理主義」というものがある。

機会均等とは、基本的に競争原理や市場原理を肯定しつつも、誰でも市場競争に参加する機会は与えられるべきであり、競争のスタートラインにつくところまで を保障するのは政治の責任であるという考え方を指す。いざレースが始まれば、能力の高低や努力の大小などで、結果は当然変わってくるが、政治は結果までは 保障しない。能力や努力の如何に関わらず、政治が結果の均等までを保障する「結果均等」とは明確に区別される。

しかし、生まれつきハ ンデを負っていたり、何らかの理由でレースに参加するのが難しい条件を抱えている人には、市場に一定の介入を行ってでも、スタートラインにつくところまで は政治が責任を負うべきとする。その意味では、再配分政策の顔を持っており、市場への介入を否定する「自由放任主義」や「市場原理至上主義」とも一線を画 する。

民主党の政策のなかでは、子ども手当、公立高校の無償化と奨学金の拡充、保育サービスの拡充、パパ・クォータ(父親の育児休暇 取得を推進する制度)、選択的夫婦別姓の導入と非嫡出子の相続差別の撤廃、インターネット選挙の解禁、首長の多選制限、国会議員の世襲禁止、相続税の増 税、職業能力開発、中小企業支援などに、機会均等の理念的背景を見出すことができる(*注)。

たとえば、公立高校を無償化し、大学で は奨学金制度を拡充して学費と同時に生活費まで補助の対象を拡げることで、経済的理由で進学を断念する子どもをできるだけ出さないようにする政策は、必要 な教育を受けられなければ、公平なスタートラインにつくところまで保障したことにはならないという考え方に基づく。

首長の連続当選回 数の制限や国会議員の世襲禁止も、そうした人々が選挙で圧倒的に優位な現状はフェアではないとの立場から、これに歯止めをかける。本人の努力や能力と関係 なく、特定の人だけが有利になる制度を放置すると、そのようなアンフェアな市場には有能な人材が集まらなくなり、活力が失われるからだ。

しかし、機会均等はあくまでもレースへの参加を保障、もしくは後押しするものであるため、必ずと言っていいほど勝者と敗者が生まれる。そこで生まれた敗者 に対しては、社会保障やその他の政策でセーフティネットを設けることが必要になる。一度競争に負けたからといって、奈落の底に落ちたまま這い上がれないよ うな状態を政治が放置するようでは、怖くて誰もレースに参加しなくなってしまう。民主党の政策パッケージには、それを前提としたセーフティネットがそれな りに周到に用意されていると言っていいだろう。

フェアネスの3つの要素をめぐっては、この「機会均等」まではある程度合意形成は容易 なはずだ。しかし、フェアネスを徹底するためには、残る2項目の「未来への責任」と「フリーライダー禁止」が欠かせない。そのあたりから、民主党のフェア ネスが、われわれ市民に求める覚悟が何であるかが見えてくるはずだ。

*注:これら政策の具体的な中身については、筆者による民主党の政策分析集『民主党が約束する99の政策で日本はどう変わるか?』のほか、『民主党の政策INDEX2009』、『民主党の政権政策Manifesto2009』 を参照されたい。

「未来への責任」では現世代の全員が既得権益者となる

「未来への責任」は、1996年9月に鳩山由紀夫氏らが今の民主党の前身となる旧民主党を立ち上げた際の結党のスローガンだった。

これは私たちが、今この瞬間に地球上に生きている世代に対してだけではなく、未来の世代に対しても責任を負っているという意味で、環境政策や財政政策など で、未来世代に負の遺産を残すべきではないという問題意識が込められている。最近でこそよく耳にする考え方だが、民主党がこれを13年も前から主張してい るという事実は、一定の評価に値するだろう。

未来世代への責任を重視する考え方も、根底にはフェアネス、つまり公平感がある。今生きている世代が物質的な豊かさや便利さを享受するために、未来の世代が生きる地球環境や財政をボロボロにしてしまえば、たしかに未来の世代に対してフェアではない。

「未来への責任」政策には、排出権取引や炭素税、再生可能エネルギーの推進と電気固定価格全量買い取り義務化制度、CO2の見える化などを通じた踏み込ん だ地球温暖化対策、生物多様性の保全、個別リサイクル法とリターナブル瓶(繰り返し使える瓶)のデポジット制度、予算の組み替えや政治主導の予算編成、大 型公共事業の見直し、特別会計の事実上の廃止などを通じた抜本的な財政構造改革、税ベースの持続的な年金制度の導入などが含まれる。

これらはいずれも現役世代には相当の負担や我慢を強いる政策であると同時に、政治が市場に介入することになるため、とりわけ経済界では不評のようだ。それ もそのはずで、未来への責任は現世代間の再配分ではないが、時間軸上の公平な分配を行うという意味において、再配分政策の一環に他ならない。

しかし、グローバル化のうねりのなか、国際的にも国内的にも、現世代間ですでに熾烈な資源争奪戦が行われている現実を考えれば、目の前にある資源や財源を 未来の人たちのために温存することは容易ではない。また、未来の心配をする前に、今この瞬間も格差が広がり、最低限の生活をすることさえ困難な人たちが国 内にも大勢生まれているという現実もある。世界に目をやれば、8億人からの人々が1日1ドル以下での生活を強いられているのが、今日の世界の現実なのだ。

「未来世代への責任を果たそう」と言えば、おそらく多くの人は賛同するだろう。しかし、それが同時に、現世代に大きな痛みを受け入れる覚悟を求める政策で あることは、しっかりと認識しておく必要がある。未来への責任政策とは早い話が、現世代のすべての人間を既得権益者の立場に置いた上で、その資産を未来に 再配分する政策ということになる。

公平な負担を求めるのもフェアネスの一環

3つ目のフェアネスである「フリーライド(ただ乗り)禁止」はもっと厳しい。

ここに顕れる民主党の厳しい顔は、漫然とマニフェストを読んでいるだけではなかなか見えてこない。だが、その政策を注意深く検証していくと、民主党がフェアネス路線の延長で、社会的な公正感を貫徹するためにかなりの力を注いでいることが浮き彫りになるはずだ。

民主党が政権を獲得したときの日本は、自民党政権のややもすれば牧歌的な寛容さに便乗して「ただ乗り」を続けてきた人にとっては、相当厳しいものになるかもしれない。

実際、自民党政権下の日本は、毎年徴収されている税金の加算税、社会保険料やNHK受信料の未納が膨大な額にのぼることを見てもわかるように、「フリーラ イド」ついてはかなり寛容だった。よく言えばそれだけ余裕があった。悪く言えば、なあなあでいい加減だったということになろうか。

フ リーライド禁止のフェアネスとは、たとえば、高い税金を真面目に納めている人がいるのに、税金逃れをしている人がいるとすれば、それはフェアではないとい う、至って明快な論理だ。年金や医療保険についても同じことが言える。これを政府側から見れば、徴収すべきものはしっかり徴収するのが政府の責任であり、 そのような制度を作ることが、政治の責任ということになる。

たしかに、制度にただ乗りをしているフリーライダーのために、権利を有している人が十分な給付やサービスを受けられなくなるとすれば、こんな不条理なことはない。しかも、フリーライダーの数が一定の率を超えると、制度そのものが破綻する恐れさえある。

民主党はまず、社会保険料の取りっぱぐれを減らすことを目的に、納税者番号と社会保障番号を統合した国民総背番号制とも呼ぶべき新制度の導入を計画してい る。これは住基ネットと並び、個人のプライバシーが一元的に政府に握られる恐れがあるとの理由から、自民党政権下で何度も浮上しては、野党や世論の反対で 見送られてきた制度だ。ところが、民主党はこの導入をあっさりマニフェスト(政権公約)に入れている。社会保険料も税金も、徴収すべき金額を判定する上 で、その人の所得の把握が不可欠なため、番号の共通化によってそれを容易にするのが目的だという。

民主党は税の徴収についても、1兆円近くの税金滞納が生じている現状や、毎年個人・法人合わせて1000億円近くも加算税が発生している問題を重く見て、滞納や税金逃れに対する罰則を強化し、重加算税も増額する方針を打ち出している。

もちろん、本来払うべきものをきちんと払っている人は、これらの政策に関して何ら心配する必要はない。そういう人にとっては、むしろ歓迎すべき政策かもし れない。しかし、長年の自民党的ぬるま湯体質に慣れ親しんできた日本人が、この政策転換にうまく適応できるかどうかについては、一抹の不安を感じずにはい られない。

納税者番号制導入のリスク

ところでこの納税者番号や社会保障番号は、税や社会保険料徴収の効率化という意味ではたしかに効果はあるのかもしれない。しかし、その一方で、国民のさ まざまな情報が政府に一元的に握られることのリスクについては、市民社会は警戒を怠ってはいけない。仮に自分は民主党を信用しているという人がいたとして も、この制度は民主党政権が変わってからも続くことだけはお忘れなく。

アメリカを含め、社会保障番号制度を導入している国は少なくないが、多くの国では、そのリスクをディスクロージャーの徹底によって回避している。ここで言 うディスクロージャーは、政府が握っている個人情報は本人であればいつでも閲覧でき、そこに間違いがあればいつでも修正や削除ができるようになっているこ とを意味するのであって、個人情報をすべて公開してしまうという意味ではない。税にしても社会保険にしても、個人情報についての何らかの背番号制が導入さ れるのであれば、自分自身の情報を閲覧し、必要があれば訂正や削除を請求する「自己情報コントロール権」が、それと対になって導入されなければ、市民社会 にとってこの制度はリスクが大きすぎる。

また、昨今の「消えた年金騒動」で自分の年金情報は随時確認しておかなければならないこと を、市民社会は思い知ったわけだが、それと同様に、われわれは行政が握っている自分自身の個人情報を、随時確認しチェックする習慣を身につける必要がある だろう。民主党がディスクロージャーに力を入れているのは、そのためでもあるのだ。

歳入庁の創設で社会保険料と税の徴収を一元化

さらに民主党は、社会保険料と税の徴収を一体化することの延長として、国税庁と社会保険庁を統合し、歳入庁という新しい役所を創設する計画をぶち上げて いる。これは鳩山由紀夫代表が、7月27日の発表の際に「実現しなければ責任を取る」とまで大見得を切ったマニフェストにもはっきりと掲載されているの で、民主党は本気だ。

歳入庁構想は単に、国税庁と社保庁という、国民からの資金徴収という同一の機能を持った二つの役所を統合する、政府の合理化策ではない。そこにはもう一つ 隠された重要な意図がある。それは「マルサ」と恐れられる国税庁が長い年月をかけて蓄積してきた強力な徴税のノウハウを、社会保険料や年金の徴収にも活か そうというものだ。

いまや、保険料が給料から天引きされない自営業者の国民年金や国民健康保険の未納率は、国民年金で3割を超え(納 付率が07年度の1号被保険者の納付率が63.9%)、国民健康保険でも1割を超えている(08年度)。それが、かつては世界に誇った日本の国民皆保険、 国民皆年金の社会保障制度を根幹から揺るがす一因となっていることは、まぎれもない事実だ。たしかに、未納者、滞納者やフリーライダーのために、社会保障 制度が崩壊してしまうのは理不尽だし、それを放置することは、そもそもきちんと納めている大多数の人に対してフェアではない。

また、 フリーライダーが大勢いるに違いないと国民の多くが感じているような、制度に対する信頼が揺らいだ状態のままでは、さらに未納者やフリーライダーが増える という悪循環が起きる。制度に対する信頼を回復させるためには、まずは厳格な徴収体制を構築し、公正感を取り戻すことが不可欠だ。

たしかに、社会保険料の徴収に関する未納者への姿勢は、地獄の果てまで追いかけていく税務署のようなしつこさが欠けていたのも事実かもしれない。それが未納率の高さにつながっているとすれば、税務署のノウハウを社会保険料の徴収に活かすのも悪くはなかろう。

だが、未納率の高さを、フリーライドの横行のみが原因だと受け止めると、大きく状況を見誤ることになる。もちろん未納者のなかには単なる便乗組も実際には いるのだろうが、それよりも遙かに深刻なのは、年金という社会保険制度に対する国民の信頼が根底から崩れていることだ。信頼できない制度に、カネだけ払え と言われても、「はいそうですか」と言うわけにはいかない。信頼を回復せずして、歳入庁なるものを新設し、マルサよろしく徴収の強化のみを図れば、国民の さらなる反発を招くことは必至である。まずは制度への信頼を取り戻すことが、何よりも先決だ。

また、年金や社会保険料の未納率上昇の 背景には、経済低迷や格差拡大が原因で、払いたくても経済的な理由から払えない人が大勢いることも、明らかになってきている。これを単なるフリーライダー 問題ととらえ、強面で対応すれば解決するなどと考えていると、とんでもない過ちを犯すことになりかねない。実際、2008年4月から、国民年金と国民健康 保険をリンクさせることで、各自治体は年金保険料の未納者には健康保険証を交付しないことが認められている。民主党の歳入庁構想は気をつけておかないと、 税金の滞納者にも健康保険を使わせないなどの方向にエスカレートしていく可能性もある。健康保険が使えないということは、「病気になったら死ね」と言うに 等しい。

民主主義国家としての、あるいは自由主義経済の国としての日本に、フェアネスという概念が欠けていたり、近年それがとみに弱 まってきている面があるとすれば、民主党政権下でそれが再構築されることは歓迎すべきことだ。その意味はけっして小さくはない。筆者自身も、日本にはアン フェアなことや不条理なことがあまりにも多く、市民の多くはやや諦めムードに陥っている面があるように感じている。それは昨今の日本の元気のなさとも無関 係ではないはずだ。

しかし、それと同時に民主党のフェアネス政策が、けっして単なるきれいごとでは済まされないことも、われわれ市民はあらかじめしっかりと肝に銘じておく必要がある。

Saturday August 01, 2009 at 17:53

「検証・民主党政権で日本はどう変わるのか」第2回

2009年7月25日 ビデオニュース・ドットコム

民主党政権の“ディスクロージャー”で問われる市民の覚悟
(ジャーナリスト 神保哲生)

『検証・民主党政権で日本はどう変わるのか』、第1回目の前回は、民主党政権誕生の意味を、「まかせる政治から引き受ける政治へ」の表現を使って解説し たが、実際日本では長らくおまかせの政治がまかり通ってきた。ここで言う「まかせる」は、“官僚にまかせる自民党に市民がまかせっきりの政治”という意味 だ。まかり通ってきたというよりも、そもそもこれまで日本では、政治とりわけ国政に一般市民があれこれ口を出すことは、必ずしも好ましいとは考えられてこ なかったとさえ思う。

たしかに、戦後復興から高度成長期にかけての期間は、焼け野原から再出発した日本にとって、何よりも経済成長が優先課題であることは、誰の目にも明らか だった。あとはその目的を達成するための最も効率的な方法を、優秀な官僚たちに実践してもらえば十分だった。そこに市民があれこれ口を出す余地はなかった し、国がうまく回り、国民生活が豊かになっている以上、その必要性も感じられなかった。

幸か不幸かその状況は、官僚機構が戦前から共有してきた「由らしむべし、知らしむべからず」の思想とうまくマッチし、まかせられた政府側は市民に対する情報公開にはいたって消極的な姿勢を取るのが常となった。

この「由らしむべし、知らしむべからず」は、論語の「子曰民可使由之不可使知之」(子曰く、民はこれに由らしむべし。これを知らしむべからず)が出典だ。 本来は「人々を頼らせることは容易だが、理解してもらうのはむずかしい」という意味であり、為政者に対して民の理解を得ることの難しさを諭し、そのために はいっそう説明の努力をする必要性があると説く言葉である。それがどういうわけか、「愚かな民は頼らせるべき対象であり、わざわざ知らせる必要はない」を 意味するものと曲解されてきたのだから、皮肉としか言いようがない。これは、できる・できないを意味する可(べし)・不可(べからず)を命令形(〜せ よ・〜するな)と勘違いしていることからくる単純な誤解で、受験で古文をしっかり勉強したはずの官僚たちが知らないはずがない。おそらく確信犯的に誤った 解釈をしてきたのだろう。

理由は何にせよ、情報公開が決定的に足りないため、これまで市民は政府の意思決定に主体的に関わることができなかった。それが政治への無関心を呼び、さらには市民社会と政治の距離を広げる悪循環となってきた。

民主党政策の肝は「ディスクロージャー」

民主党の政策関係の資料には、いたるところに「ディスクロージャー」の文字が登場する。ディスクロージャー(Disclosure)は「露出」や「発表」を意味する英単語だが、政治の世界では通常「情報公開」を意味する。

政治や行政が持つ情報を、できる限り有権者や納税者などの一般市民にオープンにしていく姿勢が民主党政権の重要な要素であり、それが公約でもある。民主党 の政策には「オープン・アンド・フェアネス」という基本理念が流れているが、この「オープン」のなかに、前回紹介した5つのDNAのうち「情報公開(ディ スクロージャー)」と、社会そのものをより開かれたものにしていく「包摂と参加」の2つが含まれる。とくに前者はすべての政策に通底しており、これまでの 自民党政治との最大の違いもそこにあると筆者は判断している。

残念ながらこれまでの日本は、先進国としては明らかにディスクロー ジャー後進国だった。1999年に情報公開法(行政機関の保有する情報の公開に関する法律)が制定されているが、その内容は「情報非公開法」と揶揄される ほど使い勝手が悪く、「国民の知る権利」や「原則公開」といった情報公開法の基本理念とされる要素すら明記されていない代物だった。

民主党政権ができたとき、最初に官僚の激しい抵抗に遭うのが、おそらくこのディスクロージャーだろう。とにかく官僚は情報公開が嫌いだ。一般市民に情報公 開などしても、ロクなことがないと思っている。そもそも情報公開を前提とせずに意思決定をしてきているので、いざ公開となれば、とてもではないが国民に説 明がつかないことが多すぎる。

もし民主党政権ができたなら、政権のトップつまり内閣総理大臣が、「この政権ではディスクロージャーを 徹底する」旨をいち早く宣言すべきだろう。国民のみならず官僚に対してもそうした強い意志を明確に示さなければ、政権はディスクロージャーでつまづく可能 性がある。そして、ディスクロージャーが徹底できなければ、民主党政権はほとんど何の成果も上げられない可能性さえある。それはディスクロージャーに対す る姿勢こそが、自民党政権と民主党政権の最大の違いと言っても過言ではないからだ。

政治でも経済でも温暖化対策でもディスクロージャーを推進

民主党の原口一博NC(次の内閣)総務大臣は、政権を取ったら情報公開法を改正したいと語っている。本稿執筆時点(2009年7月22日)では、情報公 開法の改正が民主党のマニフェストに入るかどうかは定かでない。だが、前回お伝えしたように、民主党政権をマニフェストだけで判断してはいけない。

民主党は自分たちのやろうとしていることをすべてマニフェストに書き出しているわけではない。やりたい政策のなかから、選挙用のウリになるものを並べているだけだ。それを実行できなければ公約違反となるが、逆にそれ以外の政策を実行しても公約違反とはならない。

政府の情報公開の姿勢を示す規範法となる情報公開法に、先述の「国民の知る権利」と「原則公開」の2語を入れられるかどうかは、その他の政策への波及効果という意味でも、官僚機構に対する意志表示という意味でも、大きな意味を持つ。

ちなみに「知る権利」とは、すべての行政情報は税金を使って公務員が集めた国民の資産であり、当然ながら国民はこれらすべてにアクセスする権利があることを明確に示したものだ。

一方、国民には原則的にすべての情報を公開しなければならないとはいえ、外交交渉や犯罪捜査情報、プライバシー情報など、情報公開法から除外すべき種類の 情報もある。それらを明確に定義し、公開を拒絶する場合、その情報が除外規定に入ることの挙証責任を行政側に課すというのが「原則公開」の考え方である。

民主党の政策には情報公開法以外にも、ディスクロージャーが目白押しだ。

小沢一郎前代表の秘書の逮捕で大きな議論を呼んだ政治資金規正法についても、民主党はこの事件が表面化するはるか以前から、政治資金の報告義務の強化や外部監査の義務づけなど、政治資金のガラス張り化を公約に掲げていた。

他にも、危険情報公表法、犯罪捜査における取り調べの可視化、公共事業の競争入札や随意契約の情報公開義務づけ、議員と官僚の接触の情報公開義務づけ、候 補者情報へのアクセスを容易にするインターネット選挙運動の解禁、年金通帳交付を通じた年金納付記録の閲覧公開、加工食品や外食の原産地表示義務づけとト レーサビリティの徹底、CO2の見える化等々、民主党の政策はその大半がディスクロージャー政策と言っても過言ではない。これらの政策については、拙著 『民主党が約束する99の政策で日本はどう変わるか?』で、より詳しく解説してあるので是非ご一読いただきたい。

ディスクロージャーで市民の責任は重くなる

よほど大失敗しない限り、民主党政権ではディスクロージャーが大きく進むことは間違いないだろう。自分たちの仕事が丸裸にされる官僚を別にすれば、市民 側としては情報公開が進むのは総じて歓迎すべきことだし、そう思っている人が多いに違いない。しかしそうした方々に、いくつか前もって警告しておかなけれ ばならないことがある。

まず、行政や政治家や企業のディスクロージャーが進んだとしても、それを利用するかどうかの選択は、基本的に市民側にゆだねられているということだ。いく ら情報公開が進んでも、国会議員の政治資金収支報告書が毎月各家庭に送られてくるわけではない。ディスクロージャーがどの程度意味を持つかは、あくまで市 民がそれをどれだけ活用するかにかかっている。

前回お伝えした「まかせる政治から引き受ける政治へ」は、まさにこのことを指す。情報 公開さえ進めば、自動的に世の中の見える化が進み、結果としてより良い社会が達成されるというほど民主主義は甘くない。そもそもディスクロージャーという 考え方自体が、「どこかの誰かがその制度を利用して社会の透明化を進めてくれるに違いない」という他力本願の発想を前提にしているものではないのだ。市民 1人ひとりが情報公開の結果を引き受ける覚悟が必要になる。

むしろ、ディスクロージャーの推進によって、これまで情報を公開しない代わりにすべての責任を引き受けてきた(いざ問題が起きたときは責任逃れをするが)官僚の責任は軽くなり、その分、市民の責任が重くなることを十分に認識しておく必要がある。

情報が公開されているのだから、市民は意思決定に参加することもできるし、異議申し立てをすることも可能だ。つまり、ディスクロージャーが十分に保障され た制度の下で行われた政府の意思決定には、自動的に市民も参加していることになる。少なくとも、政府が勝手に決めたことだとは言えなくなる。

ディスクロージャーというのは、一見、よいことづくめに思えるかもしれないが、実は市民に対して重い責任を背負う覚悟を求める制度なのである。ディスク ロージャーが進む民主党政権下の日本では、社会が良くなるか悪くなるかを、これまでのように「お上」のせいにすることはできない。社会をよくするのも市 民、悪くするのも市民。それがディスクロージャー政治のもう一つの顔なのだ。

そしてそれこそ、民主党政権が「まかせる政治から引き受ける政治」への転換を意味すると筆者が繰り返し説く理由でもある。

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