「理屈が欲しい、ロジックがほしい、ルールがほしい」
「マクロス・フロンティア」河森正治監督・5
—— 職場の温度を上げるために、管理しやすい均一化した人材ではなく、バラバラな個性を持つ人を集めて、好きなことを自分勝手にやってもらう。主体的に動く個人をたくさん束ねて、活気のある“生態系的”な組織や作品作りをなさっているということでしたが。
河森 でも、いろいろな個性を持つ人を集めてやるというのは、面白いんだけれども、空中分解もしやすいんですよね。ただ自由にやってもらっただけでは、船頭多くして何とやらになってしまう。
—— そうですよね。皆が「俺が俺のやり方でやる」と言い始めてしまったら、組織は機能しなくなりますね。だから、言葉にできて、紙に書くことができるような「ロジック」で管理したくなる。
河森 しかし、アニメの場合ですと、制作に関わる人数が膨大になってくるので、「一つ一つについてその都度きちんとみんなで話し合って考える」というロジックだと破綻するんです。
—— 関わる人数が多いから、物理的に無理になってしまいますね。
「紙に書ける」ロジックでコントロールしたい!
河森 それに、組織でも作品でも、ロジックだけで作っていくと、視野が狭くなって、幅が狭くなっていってしまうんですよね。それは僕の経験からそう思うのですが。
油断していると、僕はついつい設計図を考えてしまうんですよ。元がロジック大好き人間なので(笑)。
昔、初代「マクロス」の頃は、設計図を書いて、計画を立てて、できるだけ緻密に構成をして、そのゴールに向かっていくというロジカルな作り方をし ていたつもりなんですが、そうすると、だいたい設計通りにいかないわけですね。多人数で作るから。その設計通りにいかないところが、もう嫌で嫌でしょうが なくなっちゃって。
—— コントロールできない状態は、ストレスになりますよね。
河森 ストレスになります。けれども、その大人数というコントロールの効かなさが、僕の描いた設計図を“越えて”くれた部分もあるんですね。
それから、「マクロス」が終わって、いろんな国に取材旅行に行って、多様性があった方が面白い、むしろロジックだけによるコントロールはやめたほうがいい、という思いに繋がったんです。
—— ロジック通りに作ることを目指したけれども、ロジックを越えたところのほうが面白かったと。
紙に書いて貼っておくかわりに「最低限の手」をいれる
河森 そうですね。だから今は、「設計図」を考えるんじゃなくて、「生態系作り」を考えるんだとという。そこに気をつけています。
—— ただ、前回仰っていたことからすると、生態系的な組織では、個々人が自由な動きをするわけですが、やはりこれを束ねるのは難しそうですね。ロジックに逃げ込みたくなりそうな。
河森 やっぱりキモはフィールド、環境作りですね。最初に、みんなが勝手にやっても大丈夫なように受け皿を作るんですね。
このフィールドは生態系なんだと考えると、「人間が手を貸さなくてもうまく機能していた時代があった」ということですよね。その前提の中で、じゃあ、「最小限の手」にしてみよう、と。
—— 最小限の手、とは何なのでしょう。
河森 自然農では、作物は勝手に育つわけだけれども、ほかに何をする必要があるかといったら、時々見に行ってあげること。見てもらえること、見ることが最低限、最小限の手という、そういうことです。
やってみると難しいんですけどね。でも難しい中にも、サテライトで“実験”を始めた10年の間に、手探りで少しずつやり方を見つけつつあって。
—— そのひとつが、前回お話しいただいた、組織にリーダーを置かず、「ファシリテーター」(促進役)を入れることでしたね。
河森 人材が好き勝手に動いて、生態系として機能させるには、ファシリテーション役をする人間が、彼らに対して「もっとやっていい」「もっと暴走していい」、ただし、「他の人の生長や楽しみも同じだけ尊重して」と言い続けないといけない。
芽を摘み取ったりとか、均一化していこうという思考がわずかでもあったら失敗します。そんな乱暴な、と思われるでしょうが、そういうとらえ方にならないと、うまく機能しないんですね。
—— 前にお話しいただいた「空を青く塗らない」人材づくりですね。
河森 そもそもうちに来てくれる人たちだって、均一にまとまるように日本で教育を受けてしまっているわけで。学校や企業はルールを教えることはしますが、ルールを疑うことは教育しないですからね。
「ルールが絶対だ」「ないと困る」という人々
だから自分は、クリエイティブな組織や作品を作る際に、いろんな要素や人材が入るように考えるんですが、ひとつだけ、入れてはいけないものがあるんです。
—— それは何ですか。
河森 「ルールが絶対な人」なんですね。
「この規則に、ルールにのっとらなきゃ絶対だめだ」という人が入っちゃうとアウトなんです。
—— ルールが絶対というのは、いったいどんな人なんですか。
河森 ひとつには、せっかくうまく行きかけても、すぐに、越権行為だ!とか言い出す人ですね。そうなると、あっという間にトーンダウンしてしまうわけで。それから「与えられたルールがないと動けない」人もそうですね。
僕が20代の頃はそういう人は少なかったです。僕なんかも、とにかく大人から「やるな」と言われることをやりたくてしょうがなかったんですね。そ れは失敗するぞ、売れないぞとか言われると、じゃあ、売ってみせると言ってやっちゃう(笑)。そういう感じで、やるなと言われたことをするのが大好きだっ たんですよ。
でも、いつの間にか、言われたことしかやらない世代といわれる人たちが増えて。
—— なぜそうなったのでしょう。
ツールの枠の中から頭が出ない
河森 この辺言いたいことが多いので、話が広がり過ぎちゃうとよくないんですけど、教育の現場で○×テストが導入されたり、家庭用ゲーム機がどの家にも入ったり、コピー機が子供のころから存在するようになって。とどめはパソコンとネットワーク。
現実体験がベースにある人が、こうしたものをツールとして使うのはいいと思うんですけれども、現実体験がないのに使うのはまずい。仮想的な「創 造」ができるツールとしては非常に優れているけれども、その比重が逆転してしまうと危なくて。実体験をベースに、ツールで拡張するならいいですよね。でも 現実には、ツールの枠の中で思考が止まっている。
言い換えると、実際にやる前に、「まず理屈をくれ、マニュアルを紙に書いてくれ」という人が増えている。
—— では、入れてはいけないのは、「理屈が欲しい、ロジックがほしい、ルールがほしい」と言う人なんですね。
河森 現場で何かあったときに、ルール絶対じゃなく、ルールが多少変わっても平気なスタッフをそろえないと危ないんですよね、少なくともメインスタッフでは。
特に日本では、「ルールがないと動けない」という状態にどうしてもなりやすいんですよね、これだけ実体験なしで、実体験と錯覚させる使えるツールが増えると。
ルールの枠を守って上からコントロールされている方が楽、という気持ちもわかるんだけど、そこは頑張って、今自分が居るところのルールの枠を外していかないと。
—— 海外旅行の体験がそれに気づくきっかけになったというのは、別のルールに触れる機会だからなんでしょうか。
自分のルールが通じない体験をしてみるべきなんだけど・・・
河森 うん。アジアで貧乏旅行をしたときに面白かったのは、日本のルールがまるで通じなかったことなんですね。
日本とか欧米社会ってやっぱりルールがはっきりしている社会で、国ごとの微妙なメンタリティの違いはもちろんあるんですけれども、そうはいっても基本ルールが一応あるじゃないですか。ある程度の近代社会といわれるものを成立させたところは。
インドとか中国の奥地に行ったらそんな近代的ルールはないですからね。特に僕が行き始めた頃なんかはそうでした。あれはスリリングで面白かったし、最初はびっくりするわけですけれども。最初に中国に行ったとき、トイレの中に敷居がなかったりとか(笑)。
時々、日本とか欧米のルールじゃないところに行かないと、どうしても生まれ育った国のルールに戻ってきちゃうんですよ。我々が生まれ育った国は人 工ルールでがっちりだから、そこにできあがる組織もロジックありきであって、生態系ではないんですね。生態系じゃない感覚を持ち込むと、やっぱり幅が広が らないんですよ。
脳が優位、というのも錯覚かもしれない
—— それが閉塞感にもつながっているんじゃないかということですね。
河森 ○○してはいけないという、「ルール」ばかりが優先されるようになっていますよね。近代社会として仕方がないことなんだけれども、脳優位社会、脳の中でも前頭葉優位みたいな社会になっているなと思うんです。
—— 脳優位社会、つまりルール、ロジックばかりが優先される社会。
河森 生物の「個性」といわれるものの始まりは、消化管、消化管の腸壁の吸収特性の違い—— 何の栄養分を吸収するかの特性というの が、「好み」ひいては「個性」の始まりだという説があって。人間の好みというのは、脳が好みをつくっているだけじゃなくて、消化管が好みをつくっている、 その消化管が最も短時間で次の食物を得るために脳が発達したという、そういう説なんですね。消化管のために脳ができたという。ところが、いつの間にか脳が 肥大化して、自分が身体全体の主人のように思っている。これって実は錯覚じゃないかと。
脳さえあれば、ほかはいらない。脳以外を排除しようという感覚は、やっぱり「枠から出ない」し、「単一の作物だけを作る」ことと同じ感覚なんです よね。もしくは、「ある単一の文化以外は排除していこう」ということと同じ感覚ではないかと。でも、生き物として考えると、脳だけじゃなくて、腸も肺も心 臓も等価であると。どれも同じだけの価値があるという方が、生き物としては当たり前なんじゃないか。
—— 社会の中の人間のあり方も?
河森 そうですね。近代の、自然のままではいられなくなった生態系のあり方と、今、社会で起きていることや現代社会の価値観は、根っこが同じだと思うんですよね。
今の世の中には、脳=ロジック以外のところが、欠けているなと。
それで僕は、作品を作るときに、脳=ロジック以外のところに届くものを作りたいと思ったんです。
アニメに限った話ではありませんが、今はロジック化が加速している時代ですよね。マーケティングとか、理屈優先でものを作ることが多くなって。
ロジック以外のところで感じる快楽とか欲望がオミットされやすい時代と考えるならば、逆に今は、そうした快感をお客さんに提供するチャンスですよね。
—— 「ロジック以外のところで届く快感」というのは具体的には……。
河森 歌もそのひとつだと思います。
—— なるほど、そこに繋がっていくのですね。
脚注:「マクロスF」では、「戦争を歌の力で終わらせる」という初代「マクロス」からのベースがある。作中でランカとシェリルという“歌姫”が歌った曲が7作品合計で100万枚突破のヒットになり、ムーブメントがアニメファン以外の若者層にも広がった(実績については連載第1回参照)
盛り上がっている打合せは非言語のコミュニケーション
—— 「歌」には何があると思いますか。
河森 何でしょうね。純粋に「音楽」の部分と肉声という「言語」の部分と、両方の側面を持っているのが面白いと思うんですよね。
もちろん、音楽自体は、非常にロジカルな数学的な側面も持っているわけですが。歌には、歌った人の精神状態や意識が、音としての歌にも乗っているけれども、もしかしたらそうじゃない部分も伝達されているんじゃないかなという幻想を抱いていますね。
—— 「マクロスF」にもそういう設定がされていました。
河森 物語ではSF設定として描いていましたが、潜在意識の伝達というのは、起こりえないことではないと思うんですよ。
例えば、盛り上がっている打ち合わせでは、みんなが同時に同じようなことを思いついたりしますよね。まるで自分で思いついたように認識しているけれども、あれも他者の意思が伝わってきたという可能性もあると思うんです。意識の伝達のひとつの形ですよね。
—— 盛り上がっているミーティングは、意識がなんとなく共有されている場であるということですね。
河森 自他の領域に区別がない状態になっていると、他人の考えだと思わないんですよね。できれば、組織の中で、潜在意識が共有された状態をつくりたいんです。共有意識を使って物を作るのに挑戦しているという(笑)。
「こういう方向にいきたい」という意志のベクトルを持って舵を切っていくと、みんなが共振するような形になって、自分が言わなくても、他の人が 「あたかも自分で思いついたように」言ってくれる状態になる。その逆ももちろんあって、他の人が思っていたことを、僕が言えるようになる、とか。
意識が共有されたネットワークができあがって、まるで1つの生物のように物を作り始めるという。そんな組織や作品作りができないかなと思っています。それこそが「生態系のような組織」ですね。
そもそも、快感って論理で説明しにくい
—— ワイルドな言い方をしますと、今、さまざまな組織が「脳(ロジック)で分かる話」というところに集中しているときに、監督は、「マクロスF」で、ロジック以外の部分を、こういうものも面白いだろうとお出しになったわけですね。
河森 脳主導だけで考えていくと、人間が本来持っている欲求を「そんなことはあり得ない」と言って否定してしまう。ルールや制限をやたらと作ってしまうのが、マーケットが広がらない理由なんじゃないかなと思うんですよ。
—— 感覚的なものということで言えば、個人的には、たくさんの戦闘機が空を飛び交うシーンや、そこに歌がかぶさってくるシーンが気持ち良く感じます。その気持ちよさに、何か理由があるのではないかと思うのですが。
河森 たぶんフィルムに、生物的に心地よく感じる快感みたいなものが入れられたのだと思います。
戦闘機のシーンなんですが、「マクロスプラス」を制作したときに、実際に練習機に乗って、操縦を習って、模擬空中戦をやってきたんですね。1日だけなんですけどすごく面白かったし、やっぱり実際の体感を伴ったものを作りたくなっていったわけですよね。
—— 実感が、面白さや快感を盛り込むことにつながったのでしょうか。
河森 そうなのでしょうね。けれども、フィルムで快感を追求するときには気をつけていることがあるんです。単一の価値観で“洗脳”しないようにしたいんです。
—— 洗脳、といいますと?
河森 ある1つの理念とか考え方、例えば、熱狂を、あるいは涙を呼び起こすために特化したフィルムを見て興奮するのは嫌なんです。コ ントロールされるんじゃなくて、それぞれが好き勝手に自分の好きなポイントで盛り上がってくれて、その好きなファクターがいくつも作品の中にあって、それ が組み合わさって盛り上がってくれたらいいなという。
スタッフにしても、見てくださる方にも、その快感が、洗脳されたファシズム的快感原則じゃなくて、多様性で、それぞれの人が別々のところで喜んでくれているのが集まっている、となればいいなと思っています。
—— ばらばらな多様性を保ちつつ、「盛り上がっているミーティング」のような、全員がなんとなく意識を共有するということは可能なんですか。
河森 それぞれの人が面白がるけれど、面白さのポイントは人によってばらばらで、でも他人の面白さが「分かる」みたいなことですね。
見る側の、個別に違うツボを押す
—— 作る側が個人個人の面白さを反映して作品を作ることで、お客さんもそれぞれ個人的なツボを押され、それでいて、共通でおもしろがれる部分もある、と。
私自身も、「マクロスF」を観たときの面白がり方が、観る人によってさまざまだったところが興味深かったです。世代によって、性別によっ て、全然違う感想を聞くんですね。女性ですと、シェリルやランカの歌や生き方がいい、初代「マクロス」世代の男性ですと、初代のテイストを忠実に受け継ぎ つつ、なおかつ表現方法は今風であるというところにシンパシーを感じているという。
世代や性別で感想はばらばらなんだけれども、ランカの歌の振り付けである「キラッ☆」のポーズが、みんなの共通の話題になったりするんですね。
河森 その辺が意識の多様的共有化でしょうか。そういうことができたらいいな、というトライではありましたね。そうじゃないと、ここ を楽しんでほしいということを押しつけてしまうことになっちゃうだろうなというのがあって。単一の楽しみ方を強いるのではなくて、多様な遊び場になってく れたら。
—— 作品は視聴者に提供している遊び場ということですか。
河森 はい。視聴者にとっても、作り手側の各セクションにとっても、遊びがいのあるフィールドを作りたいわけです。また、アニメは単一の面白さを押しつける道具としては非常に機能しやすいから、意識していないとすぐにそういう方向に走り出してしまうんですよ。
(次回に続く)